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ドビュッシー(クロード・アシル)の輸入楽譜


Debussy (Claude Achille)クロード・ドビュッシー
Claude Achille Debussy
1862年8月22日 - 1918年3月25日
フランスの作曲家。



1862年、フランスのイヴリーヌ県、サン・ジェルマン=アン=レーで生まれる。

5歳のとき、一家はパリに引っ越す。

パリ=コミューンで国民軍に参加し逮捕された父親は、サトリー収容所で作曲家のシャルル・ド・シヴリーと知り合う。
父親はシヴリーから、彼の母親のモーテ夫人を紹介され、ドビュッシーは夫人から無償で基礎的な音楽を習う。

1872年、パリ音楽院のピアノ科に入学。

1880年、エルネスト・ギローの作曲法を学ぶ。
この頃から、弁護士の人妻と8年間におよぶ不倫関係が始まったという。

1884年、ローマ大賞を受賞する。

ドビュッシーは、文学に強い関心を持っており、この頃から、文学カフェ『黒猫』や『独立芸術書房』、マラルメの火曜会に出入りし詩人たちと親交を結ぶ。
その後、前衛詩人や芸術家の詩やテキストにもとづく歌曲やオペラを作曲する。

1891年、このころ、サティと出合う。

1892年、ガブリエル・デュポンとの同棲がはじまる。

1893年以降、『弦楽四重奏曲』、『牧神の午後への前奏曲』などの作品が初演され、作曲家としての地歩を築いたが、決して生活は楽ではなかったという。

1897年、この頃、同棲していたガブリエル・デュポンと自殺未遂騒動を起こし別れる。

1898年、婦人洋装店に務めるマリ・ロザリー・テクシエと結婚。彼女はガブリエル・デュポンの友人だったという。祝いの食事会の費用はドビュッシーが、ピアノ教師のアルバイトをして捻出したという。

1901年、管弦楽のための『夜想曲』初演。

1902年、『ペレアスとメリザンド』がオペラ=コミック座で初演。大成功をおさめる。
これにより、ドビュッシーは一流作曲家の地位を確立する。

1904年、作曲の弟子ラウール・バルダックの母親、銀行家の人妻であるエンマ・バルダックと不倫関係になる。
ドビュッシーは、エンマとイギリスのジャージー島に出奔し、以降妻のもとに帰らなかった。

1905年、ドビュッシーの不倫に対し、マリ・ロザリー・テクシエはコンコルド広場で胸を銃で撃ち自殺を図る。
彼女は一命は取り留めたが、その後離婚。
このことから、ボヘミアン時代の友人のほとんどがドビュッシーのもとを去ったという。
その後、ドビュッシーはエンマと同棲生活に入り、彼女との間にクロード=エマ(シュウシュウ)が生まれる。

1908年、直腸ガンの兆候に苦しめられながら、オペラの作曲を始める。

1911年、神秘劇『聖セバスチャンの殉教』、13年に管弦楽のための『映像』、バレエ音楽『遊戯』の初演。

1915年夏、避暑地プールヴィルにて、ピアノのための『12の練習曲』、『チェロ・ソナタ』、『トリオ・ソナタ』を完成。その後、直腸ガンの手術。

1918年3月25日死去。


ドビュッシーの作品は、俗に印象主義音楽と呼ばれる事があるが、もともと「印象派」「印象主義」という言葉自体が1874年当時の新進画家達を揶揄するための表現であり、音楽に対するこれも揶揄の意味合いが強いのだという。ドビュッシー自身も、この用語に対して否定的だったという。

ドビュッシーの音楽は、既成の音楽観や形式観にとらわれず、動的で柔軟な時間形態を重視して構成した作曲家と見られている。
彼自身の手紙に、「音楽は本質的に窮屈で伝統的な形式には収まらず、色彩と律動づけられた時の流れに
よって構成される」というような言葉を残しているという。



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